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国家に抵抗した人々
沖縄戦が語られるときにほとんど無視されてきたことはたくさんある。そのなかの一つが日本軍や政府の命令、教えに反して、自分や家族の、さらには多くの住民の生命を守った人たちのことである。有名なのは中部の読谷村のシムクガマという自然壕に隠れていた住民約千人がハワイ帰りの二人の判断で集団投降し助かったケースである。そのうちの一人の比嘉平治さんはハワイでバスの運転手をして英語を少し話すことができた。だからアメリカ人は鬼畜だという宣伝にも惑わされず、アメリカに戦争を挑んだ日本の無謀さをわかっていた。壕に米軍が来たときに血気にはやる青年たちが竹やりで挑もうとしたが、彼らを押しとどめ、自らが出て行って米兵に住民しかいないと説明し投降して助かった。住民数百人あるいは数十人が集団で米軍に保護されたケースはほかにもたくさんある。そこでは地域の指導者が軍や政府の宣伝を鵜呑みにせず、米兵と話をし、住民を説得しみんなで助かっている。もちろん日本軍がそこにいればそうした人たちはスパイとして殺されていたので、日本軍がいないことが助かるための必要条件だったことは言うまでもない。
「非国民」が人々の生命を救った
沖縄現地で召集された防衛隊員(正規の軍人であるが補助的な役割をさせられた)の場合、戦場で脱走した者がたくさんいた。彼らは軍の中で本土出身兵に差別虐待されたため、こんな連中と一緒に死ねないと考えた。三〇代、四〇代の隊員は家族のことが心配で逃げ出す者も多かったし、戦況から日本軍は負けると判断しこんな戦争で死ねないと考えた者もいた。本土出身兵の中にも脱走した者が少なくない。こんな戦争で死ぬことはないと部下の防衛隊員に脱走を勧めたり黙認した将校や下士官もいた。ただ日本軍に見つかると殺されるし、砲爆撃の中をくぐってうまく米軍に捕まることも難しかったので脱走したけれど戦場で倒れたケースも少なくなかった。生徒を軍に動員された中学校や女学校の教師や軍の将校・軍医の中にも生徒たちを戦闘に巻き込むことに反対していた人たちがいた。県立第二中学では配属将校が食糧がないことを理由に生徒たちを家に帰した。県立農林学校では引率教師が銃殺される覚悟で生徒を家に帰した。
たしかに軍や政府の宣伝や教育にだまされていた人々が多かったが、他方、そうしたうそを見抜き自分の頭で状況を考え判断し行動した人たちもけっして少なくなかった。彼らは当時の言葉でいえば「非国民」であったが、その「非国民」こそが多くの住民の生命を救ったのである。このことは国家の言うことを批判的にとらえ、自らの頭で考えることの大切さを示している。しかしこうした人たちの存在は政府にとっては都合が悪い。お国のために働いて死んだひめゆり学徒のことは知られてもよいが(もちろん彼女たちを死に追いやった責任は問われない形で)、そんな「非国民」の存在は闇に葬ってしまいたい、というのが戦後の日本政府と社会の思惑だった。だから沖縄でもシムクガマの入口にある碑のほかはこうした人々の存在を示す記念碑は残念ながらない。
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